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さんせう゛らんきょうかい ぱり サン・セヴラン教会、パリ
ユトリロは教会の絵を描くことで、そこの聖歌隊員となった。彼は糊や珪石、漆喰、セメントなどを使ってマチエールを創っている。光り輝く色彩は、イエロー・オーカーやクローム・イエロー、ラック・ド・ガランス(茜色)にジンク・ホワイトとウルトラマリンによって生み出され、それらを緻密に混ぜ合わせることで、画面が堅固なものになっている。ユトリロは、壮大な建物を輝かせる光の中に清澄な瞬間を見いだしたいと、いつも思っていたようである。だからこそ石の向こう側に隠された秘密が、キャンヴァスの上に出現するのであろう。ユトリロはこんなふうにして、自らの存在の意味を絵を描くことによって発見した。(K.S.)
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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