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もんまるとるのらぱんあじる モンマルトルのラパン・アジル
「……まもなくラパン・アジルは対岸にあるクロズリー・デ・リラ(リラを1000本植た大庭園のあるダンス・ホール)の影を薄くさせる存在となった。いっとき、モンマルトルの歓楽街のよくない評判は忘れられた。人々は、さまざまな色の酒の瓶が並ぶ酒場に通じる、ガラスのはまった小さな扉を開けて中に入ろうと押し寄せた。そしてペルノー酒、グレナディン、ギニョレ、キルシュをシェイクしてオー=ド=ヴィ(ブランデーの一種)につけたチェリーを飾った、この店特製のカクテルを飲んだ。日常と違った世界に入り込みたいときは、階段を数段上がり、真紅の幕を上げさえすればよかったのである。何日間か、そこは息もできないほどであった。フレデリック・ジェラールの希望でフェルトが張られた部屋には、料理とあらゆる酒の臭いが漂い、タバコやパイプ、大麻の煙がよどんで、きずだらけの天井を黒ずませ、夜が明けるころにはねばねばする黒っぽい水滴が頭の上にしたたり落ちてきた。実際のところ、この時代のほとんどのフランス人は伝統的に衛生状態に気を配ったりしなかった。100人以上の者がテーブルにつこうと店内のあちこちの隅にかたまっていたら、どれほど病気に感染する状態にあるか想像できよう。それでも、フレデが飼っていて、ロロ(ろばの名)と一緒にいた見せ物用の小さな動物たちは平気であった。店の中を雌鶏が数匹、歩き回っていても、誰も気にしなかった。山羊のブランシェットはろばの餌までほしがり、犬は床に落ちた骨や木炭のかけらをかじっていた。はしぼそがらすはテーブルの下で靴のボタンを引きちぎっていた……しかし、そんなことはどうでもいい。『ラパン・アジル』の伝説は、巧みな形で記録に残されているのだ。名声を手にしつつあった画家たちが店の装飾を請け負ったからである。その中にはアルカンの格好をしたピカソの自画像、ドゥローの水彩画、ウィレットとアンドレ・ジルのデッサン、彫刻家ワスレーのキリストの石膏像−外套掛けに使われたので、ワスレーはそれをあまり長い間そこに置いておかなかったが−、インドの浮彫彫刻、竪琴を奏でるアポロン像、後にはユトリロの油彩画やディニモンのデッサン、さらに何杯かの酒代としてなじみ客がくれたものなのでまったく商品価値がないとフレデが考えていた宝の数々などが飾られていた……」(K.S.)
カテゴリー:作品
ルネサンスとは?【 美術用語 】 15〜16世紀のヨーロッパの美術史上の様式と時期区分。とくにイタリア美術史上でいう。「ルネサンス」という言葉は、もともと、ヴァザーリが著書『美術家列伝』(1550年初版)の中で初めて用いた美術の“復活”=イタリア語でリナシータに由来し、それが1840年頃にルネサンスとフランス語に訳され用いられている。ヴァザーリは、およそ13世紀後半以降のイタリアの美術家の中にローマ帝国とともに没落していた美術の復活を認め、時代区分としてルネサンスとしたが、これは同時に古代との間に中世の概念を設定したものであった。今日通説の画期としては、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂円蓋起工の1420年より1500年までを初期、1500年〜1520−30年を盛期としている。初期にはフィレンツェ、盛期にはローマが中心となっている。自然と古代とを柱とする人文主義的造形活動を特色とし、美術理論が追求され、また美術作品の世俗化も行われ、メディチ家などの地方君主による美術の流派が形成された時代である。 |
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