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もんまるとるののるう゛ぁんどおり モンマルトルのノルヴァン通り
ユトリロはこのモチーフをさまざまな角度から何度も作品にしている。この絵を見ることで、私たちはユトリロの白の時代に入り込むことになる。ここはユトリロの人生にとって重要な意味をもつ古きよきモンマルトルの真ん中である。モンマルトルのテルトル広場やサクレ=クールは、ユトリロと家族であるヴァラドン、ユッテルの生活に欠かせない場所であった。建物の壁にはユトリロの数えきれないほどたくさんの思い出が染みついているとともに、19世紀の歴史的な事件が刻み込まれている。 窓は開いているが、何も入り込んでいかない。生も死もすべては、建物の外にある。鎧戸も窪んだ窓も、何も生きていないかのように押し黙ったままである。白壁は白くはなく、澄みきったものは何一つない。まぎれもない黒も、ここにはない。この絵は、自分がほかの人のために生きているのか、そうではないのかという、ユトリロによる自我の探究なのである。 それはほかの人たちの中に一つの自己を見いだすことである。自分は白くはないとしても、ほかの人たちも青いとは限らない。 町の中でのいさかい、自分との葛藤。じっと待つこと、不信−生きながらえ、さらに待つこと−そして無! 青や灰色や薔薇色のしみがついた、白の時代のユトリロの絵の建物の壁には、そうしたことのすべてが描き込まれている。赤ワインの入ったグラスでユトリロが味わった人生のように。(K.S.)
カテゴリー:作品
ゲラールとは?【 作家名 】 画家、版画家、挿絵画家、装飾デザイナーとして活躍したゲラールは、1860年代、マネやフェリックス・ビュオ、フィリップス・ビュルティらの親しい友人であった。初期にはエッチングによる複製版画で生計を立て、装飾デザイナー、あるいは扇製作者としても働いた。1883年には、ルイ・ゴンスに協力して、『日本美術』に日本の美術品を描いた200点余りものエッチングの挿絵を入れている。オーギュスト・ルペールと付き合うようになり、おそらくエミール・ベルナールにも刺激されたのであろう。1880年には木版画を手がけ、1880年代後半、多色刷エッチングの技法の発展に尽力した。フィリップ・ビュルティとフェリックス・ブラックモンと共にデュラン=リュエル画廊で画家=版画家年次展覧会を設立し、1890年、フランス画家=版画協会をフェリックス・ブラックモンと共に創設した。1897年、ロジェ・マルクスはゲラールのことを「パリの日本人」と評している。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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