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さのわのとおり サノワの通り
1912年にユトリロは、《サノワの通りとコンケの通り》でサロン・ドトンヌに2度目の出品をした。12月には独立美術家協会(アンデパンダン)に加入し、1913年のサロン(オルセー河岸にあった)に3点の風景画を送っている。さらに数ヶ月後には、ブロ画廊でユトリロの展覧会が開かれた。 ユトリロのことが盛んに話題になり、その名は美術愛好家にとって耳慣れたものになっていった。 「ユトリロは色彩に調和のとれた歌をうたわせるすべを心得ている。それはどこの流派で身につけたものでもない」(1913年5月26日から6月9日までブロ画廊で開かれた、リボードの企画によるユトリロ展の図録に、ルイ・ロルメル名で書かれたリボードによる序文の抜粋)(K.S.)
カテゴリー:作品
ネオ・ダダとは?【 美術用語 】 1950年代の末、ニューヨークにおいて、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズが、あいついで個展を開いた。当時の美術の世界は、抽象表現主義が全盛をきわめていたが、その中で彼らは、日常の具体的、卑俗的な、すぐそれと知れるようなものを画面に登場させ、大胆な画風を示した。ラウシェンバーグは、絵画に布や写真、印刷物などを加えて、雑多なイメージを画面に集めてくるコンバイン・ペインティングを、ジョーンズは国旗や標的などを画面にクローズアップすることで、反芸術の新しい表現スタイルをうちだした。これらの創作活動を、芸術に対する挑戦的な姿勢とみなし、「ダダの再来」という意味でジャーナリストが名付けたものが「ネオ・ダダ」である。日本も1960年の読売アンデパンダン展に、ネオ・ダダ・オルガナイザーズというグループが出品するなど、影響を受けている。ネオ・ダダは抽象表現主義につづき、後のポップ・アートの出現をまつことになる。 |
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