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さのわのあかいかふぇ サノワの赤いカフェ
「あのサノワの丘の高みからは遠くまで眺めが開けていて、光りの輪の中に少なくとも地上の七つの場所を見ることができる。しかし視線をもっと上にある村の方に向ければ、美観を損なうような看板や広告のない、ちょっとばかり立派な建物があるのに気づく。 そこには悩みに疲れた者や、モンマルトルの歓楽街につきものの酒の飲みすぎで少々くたびれた者たちがいる。僕もその病院に行き1912年の花咲く春が過ぎゆくころ、黙ってじっと静かにしていた。一流の先生が経営するこの病院では、てんかん患者やモルヒネ中毒者、凶暴症の者、そして放蕩で身をもちくずした障害者たちといった悲しい人たちの心の病を(たて不治といわれるものであっても)取り去ってくれた。 おいしい食事を摂り、殺菌されたきれいな水を飲み、居心地のよい部屋で寝起きし、ちょっとした公園で過ごし、いろいろな気晴らしがあるといったように、僕はそこでとてもよくしてもらった。昼食の後や午後の4時には、タバコを吸ったりコーヒーを飲むことも許されていた。ああ、どうして僕はあの優しい先生の心のこもった忠告を聞き入れなかったのだろうか。先生は僕に、すべての酒を控えるようにきっぱりと勧めてくれたのに。もし先生のいうとおりにしていたら、僕は人として恥ずべき渦の中に巻き込まれることはなかったことだろう」(K.S.)
カテゴリー:作品
池田満寿夫とは?【 作家名 】 1934年旧満州国奉天に生まれる。1997年没する。終戦とともに長野県に引き揚げる。長野県立北高等学校卒業後、上京。1955年に靉嘔、真鍋博らとグループ「実在者」を結成し第1回展を開催し、翌年油彩の初個展を開く。またこの年、瑛九にすすめられて銅版画の制作を開始した。1960年第2回東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞、以後61年の第2回パリ青年ビエンナーレ展、翌年の第3回東京国際版画ビエンナーレ展などで受賞。また、1966年のベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受賞するなど、受賞を重ね、一躍版画界のスターとなる。1977年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞受賞、79年同名の映画を製作。国内外の美術館等で多くの展覧会が開かれ、精力的に個展での発表も続けた。版画、陶芸、作家など幅広い活動を行い、著書も多い。 |
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