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あるじゃんとぅいゆからさのわへのみち アルジャントゥイユからサノワへの道
「……ユトリロは、サノワのロゼ通り17番地にあるルヴェルテガ医師の病院に入院したところであった。そこは別荘ばかりがあり、極めて静かで感じのいい通りであった。ヌイイの市場にアスパラガスを出荷してかなりの資産を手にしたロゼ親爺は、土地を手に入れ、家を建て、通りをまるまる一本造ってしまい、それに大金持ちになった田舎者である自分の名前をつけたのである。ユトリロはルヴェルテガ医師の精神病院で、優しく熱意がこもっていて賢明な治療を受けた。軽い気持ちで逃げ出したりすることがないように、それとなく監視はされていたものの、ユトリロには病院を自由に出入りすることが許されていた。彼がオーボンヌ通りやパリ通り、サン=トゥアン=ロモーヌ通り、それに風車で知られる丘の絵になる斜面に画架を立てているのがよく見られた。 6月が過ぎ、7月がやってきた。ルヴェルテガ医師はユトリロの病気はブルターニュで夏を過ごすのになんら差し障りがないと考え、医師の友人である化学者のリシュモン・ショドワンに連れて行ってもらうようユトリロに勧めた」(K.S.)
カテゴリー:作品
下村観山とは?【 作家名 】 現在の和歌山市に生まれる。一家をあげて上京。はじめ藤島常興に狩野派の手ほどきを受けた後、狩野芳崖、橋本雅邦に学ぶ。東洋絵画共進会、鑑画会に出品し、明治22年(1889)東京美術学校に一期生として入学。卒業と同時に、助教授となる。美術学校騒動では、岡倉天心とともに辞任し、日本美術院創立に参加。正員となる。明治34年(1901)美術学校に教授として復職。2年間、文部省留学生として、イギリスで水彩画の研究などを行った。美術院の五浦移転に従い、美術学校を辞職。大正3年(1914)には、横山大観とともに日本美術院を再興し、以後、院展を中心に活躍した。帝室技芸員、フランス・サロン準会員をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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