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とおり 通り
私のつたない考えによれば、この絵は白の時代1912−14年ころに描かれたものである。ゲー親爺の店「カス=クルート」に身を落ち着けていたころ、ユトリロは飲み屋の「ラ・ベル・ガブリエル」で友人のジュール・ドゥパキ、ティレ=ボニェと杯を交わさずにはいられなかった。モンマルトルの自由コミューンの「首長」であった諷刺漫画家のジュール・ドゥパキは、当時全盛であったいくつかの諷刺雑誌に寄稿していた。第二帝政の挿絵画家であったティレ=ボニェは、ユトリロに画家として立つことを強く勧めた人物である。ジュール・ドゥパキ、フランシス・カルコ、ローラン・ドルジュレスは、マリー・ヴィジェが経営する「ラ・ベル・ガブリエル」に通いつめた。モンマルトルの丘の絵描きたちはみな、ユトリロと同じように彼女にちやほやした。カウンターでかなりろれつが回らなくなったユトリロがもう一杯欲しいとねだると、マリー・ヴィジエは平手打ちをくらわせて静かにさせ、落ち着くとラムをなみなみとついで出した。ジュール・デゥパキとティレ=ボニェは、この美しき女主人の「洒落た」あしらいにはもう慣れっこになっていた。彼女のびんたを親愛の情と受け取り、たいして気にもとめなかった。彼らは彼女が腹を立てると大笑いし、彼女の健康を祈って「ジョッキ」を掲げた。みな金がなくても飲んだ。そうしたときユトリロは、金の代わりに絵で支払った。ときおりマリー・ヴィジエは、この3人に怒りを爆発させた。「大酒のみ!」「やっかい者」と彼女がわめくと、ユトリロがどなる。「ごめん。でも僕はめんどうを起こさずにはいられないんだ。」このことは、絵に対するユトリロの激しすぎる思いを懸念し、制作を控えさせようとしていたルイ・リボードが、実際にあったことだと認めている。誇り高いドゥパキは、もうこんな店には来るもんか、といいながら戸口に向かう。もっと気まずい思いのティレ=ボニェは逆らわずにドゥパキについていくが、「河岸を代える」気のないユトリロはそこにいつづけて、10分もするとワインを一瓶注文するのであった。マリー・ヴィジエは、ユトリロが酔っぱらうのを恐れていた。ユトリロが正気でいる間は何もいわなかったが、興奮して大声でしゃべり始めると、開けっ放しになっている戸口にユトリロが近づくのを待ち構えていて思いっきり尻を蹴飛ばし、通りの溝に放り出してしまうのであった。(K.S.)
カテゴリー:作品
カールとは?【 作家名 】 版画家、版画出版家、版画商。1728年アカデミーの会員となる。リゴー、ルモワーヌ、ヴァトー、シャルダン、グルーズなどの肖像画、歴史画、神話画などにもとづく版画作品を得意とし、当時のもっとも優れた複製版画家の一人となる。単なる複製制作者ではなく、解釈家と評された。ジャック・フィルマン・ボーバルレなど多くの優れた弟子も育てている。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年) |
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