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もんまるとるのみみぱんそんのいえ モンマルトルのミミ・パンソンの家
ミミ・パンソンの家は、ユトリロ一家が住んでいたことがあるコルトー通り近くのモンマルトルの丘の斜面にあった。そこの住人は芸術家たちで占められていた。ユトリロはその屋根裏に、閉め出しを食ったときに泊まるための部屋を借りていた。モン=スニ通りは、シュザンヌ・ヴァラドンと息子のユトリロがいっとき住んだことのあるモンマニーのピエールフィットへ行くときに通った道でもあった。 ミミ・パンソンの家も他の多くの建物と同様に1920年代に壊され、ユトリロが子供のころ半ズボンをはいたお尻で滑り降りた土の道は石段に変わり、それに沿って近代的な建物が建てられた。ユトリロはモンマルトルの生き証人になることを志し、一帯の家や通りの一角をすべて“エピナル版画”(大衆向けの色付版画)のような形で描き残そうとした。彼は自らの人生と分かち難く結びついているモンマルトルの丘の礼讃者なのである」(K.S.)
カテゴリー:作品
池田蕉園とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。旧姓榊原、名は由理、通称百合子。父は泉州岸和田藩士、母は国沢新九郎、本多錦吉郎に油彩画を学んだと言う。麹町女子学院卒業後すぐ、16歳で水野年方に入門。1907年(明治40)東京府勧業博覧会で2等賞を受賞。同年の第1回文展で3等賞を受賞したのを最初に、第2回展、第3回展、第4回展と連続4回3等賞を受賞した。その後も第5回展、第6回展、第8回展で褒状を、第9回展で3等賞、第10回展で特選を受賞した。彼女のこうした活躍は上村松園と比され、西の松園、東の蕉園と並び称された。1911年には、婚約以来8年もの紆余曲折をへて同門の池田輝方と結婚、16年(大正5)第10回文展では夫婦そろって特選をとるなど、おしどり作家といわれた。結婚後の蕉園は、夫輝方をもりたてるために第一線から身をひくようなところがあり、そのために夢を追うような初々しさのただよう美人画から次第に作風が変化、江戸っ子の典型のような輪郭のはっきりした女性像になっていく。1917年肋膜炎のため31歳の若さで没する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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