ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


食前の祈り[ジャン=シメオン・シャルダンの原画による]



植物のシルエット



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「キンレンカ」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「芥子」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「シクラメン」第1編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ニラ」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



『植物の装飾的応用』第1編、第2編 「ひまわり」第2編より



食物用かご



書斎のドンキホーテ



初秋


<前 (74/186ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


もんまるとるのみみぱんそんのいえ

モンマルトルのミミ・パンソンの家

作家名:モーリス・ユトリロ
制作年:1914年頃
技 法:油彩 厚紙
ミミ・パンソンの家は、ユトリロ一家が住んでいたことがあるコルトー通り近くのモンマルトルの丘の斜面にあった。そこの住人は芸術家たちで占められていた。ユトリロはその屋根裏に、閉め出しを食ったときに泊まるための部屋を借りていた。モン=スニ通りは、シュザンヌ・ヴァラドンと息子のユトリロがいっとき住んだことのあるモンマニーのピエールフィットへ行くときに通った道でもあった。 ミミ・パンソンの家も他の多くの建物と同様に1920年代に壊され、ユトリロが子供のころ半ズボンをはいたお尻で滑り降りた土の道は石段に変わり、それに沿って近代的な建物が建てられた。ユトリロはモンマルトルの生き証人になることを志し、一帯の家や通りの一角をすべて“エピナル版画”(大衆向けの色付版画)のような形で描き残そうとした。彼は自らの人生と分かち難く結びついているモンマルトルの丘の礼讃者なのである」(K.S.)


カテゴリー:作品
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

藤島武二とは?【 作家名 】

鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

藤島武二

キーワードを含む記事
12件見つかりました。

  猪熊弦一郎

  伊原宇三郎

  香月泰男

  小絲源太郎

  佐竹徳(徳次郎)

  鈴木千久馬

  富永勝重

  長谷川潔

  藤島武二

  前田寛治

  山下新太郎

  山田新一


<前   次>

徳島県立近代美術館2006