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くりにゃんくーるののーとるだむじいん クリニャンクールのノートル=ダム寺院
ユトリロはこの寺院のある所からほど遠くないポトー通りで生まれた。この広場に立っている建物が、まさにモンマルトルの中心に当たる。その区役所には人々が誕生や結婚や死亡を届けにやってくる。通りを渡った教会の横では洗礼がなされ、結婚が祝われ、葬儀が行われた。誕生、祝祭、そして忘却……。ユトリロは特に1914年に、このモチーフをさまざまな形で何度も繰り返し描いている。「もしパリを離れなければならず、二度と戻ってこれないとしたら、君は何を持っていくつもりだい。思い出の品は何だい。気に入っているものはあるのかい」。こう聞かれてユトリロは答えた。「僕は漆喰壁のかけらを持っていくだろうね」「なんでまた」「だってね、僕がガキだったころ遊ぶのに集めたのが漆喰のかけらだったんだよ」(K.S.)
カテゴリー:作品
木村立嶽とは?【 作家名 】 越中国富山(現富山市)に生まれる。幼名は専之助。前田藩の絵師に学んだ後、江戸に出て、木挽町狩野家の狩野栄信、養信、雅信に師事。雅経の号を狩野家から与えられ、万延年間の江戸城本丸御殿再建では、雅信のもとで障壁画などの制作にたずさわった。明治維新後は、御用絵師の身分をなくし生活に困窮。陶器画や漆器の下絵を描く。明治15年(1882)第一回内国絵画共進会で褒状を得、翌年フランスにおける第一回パリ日本美術縦覧会では大賞を受賞。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会でも褒状を受けるなど受賞を重ねた。また、鑑画会では、フェノロサの理論を試みた作品を発表している。 |
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