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ぴえーるふぉんのしろ ピエールフォンの城
1914年に第一次世界大戦が始まるとすぐそれはフランスにも及び、ドイツ軍が北部に侵攻してマルヌ県を占領した。さらにパリの入り口近くまでやってきて、ドイツ軍の兵士がリール=アダン対岸のウーランにまで偵察に姿を現すのが目撃された。いわゆる最初の「マルヌの戦い」でドイツ軍が撃退されたあと、国防省の写真局は解放された土地に行って、ドイツの烏合の兵によって破壊された跡を多数の写真に収めた。この絵は、絵はがきになって広まったそうした写真の一つをもとにしている。 したがって、この絵の制作年を第一次世界大戦の前半ころとすることができるだろう。この1915年が始まってすぐのころ、ユトリロは最終的に兵役を免除されたことに絶望し、自らの愛国心を画面の中でかきたてたであろうことは間違いない。 この作品で目につくのは、のびやかな雰囲気や、消えたばかりの火事と、おそらくまだくすぶっている家の煙によって黒っぽくなった空を特に念を入れて描いていることである。(K.S.)
カテゴリー:作品
幸野楳嶺とは?【 作家名 】 京都に生まれる。名は直豊、字は思順、幼名角三郎。旧姓は安田。父の実家の姓を名のる。はじめ円山派の中島来章に師事するが、明治4年(1871)師の許しを得て、四条派の塩川文麟につく。明治10年(1877)文麟の没後は、四条派を率いた。京都府画学校設立の建議書を知事に提出。明治13年(1880)の同校創立に際して、北宗科出仕となるが、翌年退職し私塾を開く。第一回内国絵画共進会で褒状を、第二回展で銀章を得たのをはじめ、パリ万国博覧会やシカゴ万国博覧会などに出品。また、京都青年絵画研究会、京都美術協会の設立に尽力。京都府画学校の校制改革で再就任し、同校教授、教頭となつた。明治26年(1893)帝室技芸員。菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香、谷口香●(こうきょう)、上村松園などを育てた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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