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くりすますのめにゅー クリスマスのメニュー
ヴァラドンが家に人を呼ぶときは、モーリス・ユトリロが会食者のテーブルに置くメニューをデッサンした。こうしたことから、彼は祝日や家族そしてその後には妻のリュシー・ヴァロールの誕生日のために、花の絵を描くようになった。 1921年のクリスマスの夜の食事は簡単だった。クリスマスの食事でハムにローストチキンというのは、とても質素である。メニューにはそれだけでは済まず、大量に必要とするワインとアルコールが書かれている。 家計が楽になると、奇抜なヴァラドンは招待客を驚かせようと、夫の運転手付きの自動車で犬のミズとミザをテュイルリー公園に連れていった……。 家計が厳しいときは週に一度牛肉を食べた。しかし自分の絵が売れると、ヴァラドンは、夫のアンドレ・ユッテルを驚かせ、また一人でいるのか他の女と一緒にいるのかを確認するために、コンコルド広場からタクシーを拾ってリヨン近くのサン=ベルナールの城館に帰るのだった。 ヴァラドンは作品を売ったお金をすべて、タクシー代で使ってしまった。(T.N.)
カテゴリー:作品
ハンス・リヒターとは?【 作家名 】 1888年、ドイツに生まれる。1908年から09年にかけて、ベルリンの美術アカデミーとヴァイマルの美術学校で学ぶ。「シュトゥルム」や「アクツィオーン」などのグループを通じて、ドイツ表現主義を知る。第一次世界大戦中は従軍するが、1916年に負傷して除隊、チューリッヒにて、ツァラやアルプらと共にチューリッヒ・ダダを始める。1919年、ベルリンに戻り、絵画の音楽化を目指して、21年に最初の抽象映画〈リズム21〉を制作する。この後、ガボ、リシツキーらロシア構成主義者やモンドリアン、ドゥースブルフらザ・スティルの人々と交流を深める。形と色という基本要素をもとにした抽象的な作品を制作する一方で、盛んに映画制作に取り組む。1926年の〈映画研究〉、27年、最初のシュルレアリスム映画の一つといわれる〈午前の幽霊〉などが有名である。ナチスの台頭と共に1931年、早々とドイツを逃れ、主としてフランスとスイスに住む。1941年、自由な制作を求め、アメリカに亡命する。翌年にはニューヨーク市立大学の映画研究所の所長に迎えられた。1944年から47年にかけて映画〈金で買える夢〉をエルンストらの協力により制作した。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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