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ゆきのむーらんどらぎゃれっと 雪のムーラン・ド・ラ・ギャレット
モンマルトルは雪に覆われていて、シャンソンに歌われたおちびさんと、歌になったことなどない哀れな者たちが、誰よりも震えあがっている。ユトリロは白から解き放たれたヴァラエティに富んだ色彩で、自然と競って詩情にあふれた作品を描こうとしている。白いものは雪であるように、白は大聖堂の色であり、それは薔薇色を帯びたあたたかみのある灰色から赤褐色に至る、調和のとれた秋の色合いを際立たせる。 ユトリロは長い構想の時間をかけて、キャンヴァスを生き生きとした一幕の劇に仕立て上げ、理解してくれる者にいつまでも目くばせを送り続ける。「すべての芸術家は、作品を創るたびにもう一つの死を体験していることを確信している……」 ユトリロはどの作品においても、もう一つの生に身を置いている。彼のキャンヴァスでは、塗られた白がどういう状態かはすぐに気にならなくなり、画面のどこからも詩情が噴き出してくるのが感じられるようになる。(K.S.)
カテゴリー:作品
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
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