![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
むーらんどらぎゃれっと ムーラン・ド・ラ・ギャレット
ユトリロは生涯のあらゆる時期にここをモチーフに取り上げ、約350点を数える《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》を制作している。ほかにモンマルトルやサノワ(ブルターニュ)の風車も描いている。 「……ああ、確かに彼はこのダンスホールをしばしば描いたが、それは外観のみであった。もしルノワールならここをテーマにして、色彩、素敵な女性、魅力的な音楽、あふれる光、そして青春と笑いと口づけの比類ない饗宴を創り出したことであろう。しかしユトリロは、ここの入り口と風車の骨と、生きた魂をもたない寂しい物たちしか描こうとしなかった。ユトリロ、彼は哀れな終焉を遂げた物たちを、夜の闇の中で探しては控えめに集めて歩く廃品回収者なのである……」(K.S.)
カテゴリー:作品
山本鼎とは?【 作家名 】 1882年愛知県に生まれる。1906年東京美術学校西洋画科選科を卒業し、翌年石井柏亭、小林未星らと雑誌『方寸』を創刊する。1912年渡欧、1916年帰国、翌年日本美術院洋画部同人となる。1918年戸張孤雁と日本創作版画協会を創立して創作版画の発展につくし、翌年長野県小県郡神川村に日本農民美術研究所を設立。また自由画運動を推進するなど多方面に功積を残した。1920年日本美術院を脱退、翌年自由学園美術部教授となる。1922年春陽会創立に参加して会員となったが、1935年帝国美術院参与に推されて春陽会を脱会するが、1943年春陽会に復帰。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||