![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
むーらんどらぎゃれっと ムーラン・ド・ラ・ギャレット
ユトリロは生涯のあらゆる時期にここをモチーフに取り上げ、約350点を数える《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》を制作している。ほかにモンマルトルやサノワ(ブルターニュ)の風車も描いている。 「……ああ、確かに彼はこのダンスホールをしばしば描いたが、それは外観のみであった。もしルノワールならここをテーマにして、色彩、素敵な女性、魅力的な音楽、あふれる光、そして青春と笑いと口づけの比類ない饗宴を創り出したことであろう。しかしユトリロは、ここの入り口と風車の骨と、生きた魂をもたない寂しい物たちしか描こうとしなかった。ユトリロ、彼は哀れな終焉を遂げた物たちを、夜の闇の中で探しては控えめに集めて歩く廃品回収者なのである……」(K.S.)
カテゴリー:作品
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||