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どんれみのじゃんぬだるくのいえ ドンレミのジャンヌ・ダルクの家
ユトリロは何度か旅行をしているが、天空からの声を聴いたという純なるジャンヌ、美しきジャンヌに出会う巡礼の旅にも繰り返し出かけている。大きなサイズの画面に描かれた、ジャンヌ・ダルクが生まれたこの家には、ユトリロの彼女への愛が込められている。 周りの木々、訪れた人たち、空、そしてそれらすべてに燦々と注ぐ日差しは楽しげである。 母シュザンヌ、純なるジャンヌ、自らのうちに肖像画になるような素質をもった近寄りがたい女性たちが、ユトリロにとって純粋さと高貴さの象徴であった。そうした神話に立ち向かおうとすればできた者にとって、それは不幸なことであった。 ユトリロは、緑色のアプサントや赤いボルドー・ワインに身をとろけさせたように、聖なるものを瞑想することで我を忘れた。ユトリロは酒を飲むのと同じように、命がけで絵を描いた。彼は真の勝利は絶え間ない闘いから生まれると考えていたのである。 この作品は、一つの休息であり瞑想であり、それは「彼の声に似たざわめきを包む、聖なる次元に築かれた沈黙」である。(K.S.)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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