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う゛ぁれんぬすどぅんのしろ ヴァレンヌ・ス・ドゥンの城
「……私は数日後にアングレームのサントソンヌの教会で宗教上の結婚式を挙げてもらいました。私たちはパリで一度法律上の結婚をしたあと、“ドゥース(甘美な)・フランス”に戻りました。そして1週間後に結婚の告示が教会の入り口に掲示されたあと、1回は免除してもらいました(3回告示されることになっていましたので)。私たちは、パイプオルガンが演奏され、有名なタピスリーがかかり、パルメール閣下から贈られた花束に囲まれ、アングレームのメグナン司教の祝福を受けて盛大な結婚式をしました。 シャラント県の知事がユトリロの立会人で、とても美しい胸像を何点か創ってくれた彫刻家のパジョが私の立会人でした。 そのころ、パリではこの出来事をとても喜んでいました。 そしてモンマルトルのアトリエからモンパルナスのアトリエまで、もっぱらこの話でもちきりでした。 『パリ=ソワール』紙はルネ・バロットの次のような印象的な記事を掲載しました。 「天才的で孤独好みの画家ユトリロは、婚約者とシャルトル大聖堂へ行って祈りを捧げた。この偉大な芸術家は、近々結婚するつもりである」 大変な騒ぎ、大変な出来事でした。仲間たちはけんかを始める始末でした。 私たちは1年間“ドゥース・フランス”に身を落ち着けました。そこはパリから450キロ離れており、シャラント川の支流の一つに面していて、今まで懸命に生きてこなければならなかった私と同じく静寂を求めていたユトリロにとっても、ふさわしい所でした。また、私にはアパルトマンを整理し、大きな家を見つける時間が必要でした。そこは夫の精神状態を平穏に保つために欠かせない所であり、彼がずっと出かけていきたいとはっきり口にしていたモンマルトルの酒場の誘惑を断ち切るために必要な場所でした。 さんざん探したあと、私たちの望みにかなったのはル・ヴェジネでした」(K.S.)
カテゴリー:作品
アンリ・リヴィエールとは?【 作家名 】 パリの下層階級の息子として生まれたリヴィエールは、ほとんど正規の教育を受けず、複製版画の彫版師として身を立てている。1884年までにエッチングを学んだことは、青インクで刷られた作品が何点か残されていることから分かる。1880年代半ばにトゥールーズ=ロートレック、スタンラン、ジョルジュ・オリオール、ウジェーヌ・グラッセらがいたロドルフ・サリのカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」のサークルに入った。当時ジャポニスムはそのサークル内でも大変盛んで、カフェ・コンセールで上演した影絵芝居「中国人の影」のセットを作るため、リヴィエールは日本の影絵を研究した。1888年、日本風の多色刷板目木版を始め、全て自刻によって広重や北斎の作品を思わせる連作を制作した。二つの連作木版画集『ブルターニュ風景』(40点 1888−94年)、『海』(6点 1890−92年)を完成した後、さらに板目木版の版画集の制作が予定されていたにもかかわらず、その後多色刷石版画に切り換えた。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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