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かびん 花瓶
ユトリロが花の作品を描き始めたのは1920年、もっと正確に言えばポーウェル夫妻と知りあい友人になった後の1920年9月であると、躊躇することなく指摘できる。彼はとても可愛い薔薇の花束を描いた1点のグワッシュを彼女にプレゼントした。献辞には次のように書いてある。 「ポーウェル夫人へ。美しい貴方の傍に置かれ、この目立たぬ花々はあなたの顔の艶で生き生きと見えるでしょう」。 彼は花を主題にした絵を好むようになったが、それはリュシー・ポーウェルが未亡人になり2年後の1935年に結婚したときに顕著になった。彼女にプレゼントする機会がある度に、彼は花の作品を描いた。そしてその機会はたくさんあった。二人の20年の結婚生活で、彼が妻に送った花の作品がどんなに多いかを私は思い出す。 祝日などには彼は時折近親者にも花の絵をプレゼントした。サシャ・ギトリィをはじめとする愛好家たちは、ユトリロの花束の作品を大切にコレクションの中に収めていた。(T.N.)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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