![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
せざんぬ、きゅうさいいんのれいはいどう セザンヌ、救済院の礼拝堂
「……ユトリロとは違って、シュザンヌ・ヴァラドンが抱いていた強い不安や恐怖が話題になることは決してないであろう。しかし私は、彼女がある日のお昼時にルーヴル河岸にある私のアパルトマンに突然やってきて、留置場でサン=タンヌ病院に送致されるのを待っているユトリロを助け出してほしいと懇願したことを覚えている。酔っぱらうのはユトリロにとって毎度のことであったものの、このときはいつになくひどく酔って極度の興奮状態になり、当直の医師は“振戦譫妄”で重大な結果を招く恐れがあるから即刻入院させるようにとの診断をくだしたのである。『あなたは彼のことをよくご存じでしょう。これを見てください』と、ヴァラドンは強い口調で言った。彼女は抱えてきたユトリロの最近のグワッシュを絨毯の上に広げ、そのうちの1枚を手にした。『こんな素晴らしいものを描けるのに、頭がおかしいなんてことがありますか!お願いですから、私と一緒に来てください。留置場の医者に会って、診断が間違っていることを知らせてやりましょう。マスコミにも気を配りますよ。ユトリロを助け出せるなら、グワッシュをほしいだけ差し上げましょう。息子はもっと書きますよ……もっといいグワッシュを。そして目を離さずにいる記者連中の所に、自分からそれを持っていくことだってするでしょう……』」(K.S.)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||