ユトリロはヴェジネの別荘では、男の庭師と運転手と一緒に快適な生活を送っていた。彼の芸術は有名になり、作品の値段は高くなり、世間から「巨匠」と呼ばれるようになった。しかし彼にとっての人生は、何百回も繰り返し描いたモンマルトルの丘の麓にあるラパン・アジルの前で立ち止まったままであった。 ラパン・アジルには、まさに一つの歴史がある−諷刺漫画でありデザイナーであり画家でもあったジルは、1890年ころモンマルトルのサン=ヴァンサン通りで宿屋兼飲食店をやっていたサルツとかいう人物と知り合った。その店は「キャバレー・デ・ザササン(殺し屋の酒場)」という、まだ田舎だったこのあたりには奇妙な響きの、いささか物騒な名で呼ばれていた。ジルは表の壁にシチュー鍋に飛び込む兎の絵を描き、モンマルトルっ子は面白がってそれを「ラパン・ア・ジル(ジルの兎)」と呼ぶようになり、以後この建物はその名でのみ知られるようになった。 そこは1875年ごろには既に、隣の酒場「フラン=ビュヴール(札付き飲兵衛)」と同じように評判のよい店であった。ノワールはこのころ、ロシモンの店の泊まり客たちに会って《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》を描いており、「ラパン・ア・ジル」はモンマルトルの伝説の仲間入りをすることになる。 サルツが以前フレンチ=カンカンの踊り子をしていたア
デルに店を譲り、ア
デルが「マ・カンパーニュ(私の田舎)」と名を変えて日曜日に大衆酒場を開いたところ、たくさんの客が押し寄せてきた。その酒場は1903年に、通称フレデと呼ばれていたフレデリック・ジェラールという男が再び買い取り、内縁の妻
ベルトと住むようになった。彼もまたそこを「ラパン・ア・ジル」と名づけた。(中略) モンマルトルの高みにあるこの店は、1885年4月30日にその名づけ親であったアンドレ・ジルがシャラントンの精神病院の一人部屋で生涯を終えてこの世から姿を消したあとも生き続けた。しかしジルのほうは、サン=モーリスの墓地に埋葬されたときに立ち会ってくれた数少ない友人達を除けば、ほとんど忘れ去られていた。(K.S.)