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あかをみることができない 〈赤を見ることができない〉
4枚からなる1シリーズの内の2点を展示。展示作品は、《赤を見ることができないIII》と《赤を見ることができないIV》の2点。-----カタリーナ・ジーフェアディングは、1944年プラハに生まれる。1963-64年ハンブルグ造形芸術大学で、64-67年デュッセルドルフの州立美術アカデミーで学び、テオ・オットーに師事する。ここでは舞台装置のクラスに属した。1963-67年舞台でのインスタレーションを手がける。1972-88年デュッセルドルフ国立芸術アカデミーでヨゼフ・ボイスに師事する。1972-92年アメリカ合衆国、中国、ソ連に研究滞在。その後、ハンブルク造形芸術大学客員教授、ベルリン芸術大学教授となる。1994年ドイツ批評家賞を受賞。現在、デュッセルドルフ在住。カタリーナの顔。それは、長年見続けてよく知っているもの。この顔に、私たちは幾度も出逢うことができる。美しく、集中力があるが、よそよそしい。それは、自らを示しながら、他者に問いかけている。そう、視線はいつも、他者を俳優にする。
カテゴリー:作品
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
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