![]() |
|||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||
|
ひじかけいすにすわるらふ 肘かけ椅子に坐る裸婦
<流砂>と同じ年に描かれた油彩画。ピカソの晩年に特有の自由奔放な筆使いが見られる。モデルは定かではない。しかし、この作品が描かれたのは1964年の5月10日から15日であり、これに先立つ同じ5月の2日から 10日にかけて、ピカソはジャクリーヌをモデルにした油彩画を何点か連続して描いていることから、この作品もおそらくジャクリーヌがモデルではないかと推測される。(※)この時期、版画や素描に限らず、ピカソは画家とモデルのテーマで多くの作品を残しており、この1964年にも集中的にこのテーマで描いている。この作品は女性の単体の裸婦像ではあるが、画家とモデルの系譜につながる作品であると考えられる。※The Picasso puroject,ed. Picasso’s Paintings, Watercolors, Drawings and Sculpture. A Comprehensive Illustrated Catalogue 1885-1973. San Francisci:Alan Wofsy Fine Arts, 2002. pp.40-44
カテゴリー:作品
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
||