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いとう はくだい 伊藤柏台
本名新太郎。大正8年京都市立絵画専門学校を卒業するが、在学中の4年京都市立美術工芸学校出身の同志と研究団体密栗会を結成、卒業の年には第2回国画創作協会展で選外として作品が陳列される。以後、同協会展に出品、15年会友となるが、昭和3年に解散後は、同志と新樹社を結成した。5年を最後に新樹社は解消し、6年に個展を開催するが、翌年若くして死去した。洋画的写実による素描風の風景画を描いた。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年)
カテゴリー:作家
ミュシャとは?【 作家名 】 画家、イラストレーター、室内装飾家。チェコのイヴァンチツェ生まれ。1879年、ウィーンの舞台装飾会社で働き、夜間学校に通う。83年芸術庇護者のクーエン=ベラッシ伯爵に会い、城の食堂と書斎の室内装飾の仕事を依頼される。伯爵は以後、ミュシャのパトロンになる。ミュンヘンの美術学校を出た後、87年にパリに出て短期間アカデミー・ジュリアンに通う。それ以来、彼は絵画に主に専念することになる。90年より様々な雑誌、新聞に評論を寄せるようになる。92年より本のイラストを始める。並行してフランス芸術家協会(1894年)や第20回100人展に出品する。1896年、1897年には個展を開催する。1892年より広告の世界に入る。広告の世界で注目されるようになるのは94年からである。その後10年間、ミュシャの広告における業績は絶頂をきわめた。1903年、初めてアメリカへ旅し、パリとプラハ、ボヘミアを定期的に行き来するようになる。少しづつチェコ人としてのアイデンティティーを意識するようになり、1910年からスラブの芸術の人生を捧げる決意をした。(「黄金時代のポスター芸術」図録 1998年) |
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