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いほうじんのほうもん 異邦人の訪問
テーブルや椅子の脚、ピアノの鍵盤や蓋、・・・ヴィック・ジャンティの作品はこういった廃材によって造られる。もともと画家として出発したジャンティは、表現主義やシュルレアリスムの影響を受けた絵画作品を制作していたが、1960年代に入ってピアノのハンマーや鍵盤の部分を配置したレリーフ状の作品を制作し始めた。そして、60年代の終わり頃から様々な木材を組み合わせて人物を作るようになる。ルーベンス、アンソール、デルヴォー、レイ・チャールズなど有名人を讃えての作品も多い。既成の部品をあまり手を加えることなく組み合わせて作り上げられたその作品は、一見できあがった形の方に重点が置かれているように見えるが、それでいて廃材を使ったという素材の持つ面白さがあり、一種のポエジーをたたえている。(「ベルギー現代美術展」図録 1994年)
カテゴリー:作品
橋本雅邦とは?【 作家名 】 石見浜田藩主松平周防守の御用絵師、橋本養邦の子として、江戸に生まれる。養邦は、木挽町狩野家の狩野養信門下であった。幼名千太郎。狩野養信、雅信に入門。同門の狩野芳崖の帰郷後、弟子頭(塾頭)となった。万延元年(1860)に独立するが、幕末から明治維新の混乱期は、生活が困窮し、明治4年(1871)海軍兵学校に出仕。足かけ15年勤務する。明治15年(1882)頃から、内国絵画共進会などで受賞を重ね、フェノロサや岡倉天心の評価を得、鑑画会に参加。東京美術学校教授となり、天心のもとで、横山大観、下村観山、菱田春草などを育てる。明治23年(1890)帝室技芸員。明治31年(1898)には、天心に殉じて美術学校を退職し、日本美術院の創立に参加。主幹として院の運営をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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