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ぶたい 〈舞台〉
ヘルマン・ピッツは、1956年オルデンブルクに生まれる。現在、デュッセルドルフ在住。1990年以降アムステルダム国立造形芸術アカデミーで教鞭を執る。1984年に「第3世代の芸術創造」という題目で講演をし、地域と時代に束縛されている芸鬱活動をこれまでとは違った場所で再生させようと説いた。1985年頃から劇場とは距離を置き、88年以降はアトリエに隠り自分の手作業のみによる素材重視の制作を、91年以降はアトリエの外において作品を意欲的に発表するようになる。その後、アトリエに立ち戻って、彼の芸術的メッセージを明確に伝えてくれる木の作品を制作した。それがこの出品作品である。「作品が、アンサンブルの中で配役が欲しいと言ってきたので、そこで、それだけのために白い台座をつくってやりました。そして、言ったのです。おまえは今や、独り立ちした彫刻になったよ、と。」
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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