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どのようなおんがくがあたまのなかにかべをつくるのか あるいは ふるくさすのたてごと 〈どのような音楽が頭の中に壁を創るのか〉あるいは〈フルクサスの竪琴〉
10枚のテクストスコアと1枚の具象イメージと1点の模型からなる一連の作品群。【番号付きのテクストスコア】1994年/〔1枚目のスコアの両面〕◆左に『ターゲス・シュピーゲル』からの新聞切抜き「破壊された理性の記録」、その下にフォステルの手書きで「『ターゲス・シュピーゲル』からの拾い物(ベルリン)1994年」◆右にフォステルの手書きで「フォステル/《どのような音楽が頭の中に壁を創るのか》あるいは《フルクサスの竪琴》/(1990年から1994年まで)/(F・ニーチェに捧ぐ)/8グループからなるハプニング・コンサート/(およそ80人の演奏者/無伴奏のシュピレヒコール)/弦楽器/ピアノ線/電子機器/戦車/およびビデオ・TVインスタレーションのための/演奏時間55分/歌詞:/W・ハーリヒからシュトーフ宛の手紙/ニーチェ経由/場所:/工場/倉庫、バス、あるいは路面電車の車庫」【具象イメージ】1992-93年/ミクスト・メディア、戦車の模型、ピアノ線、スプレー、アクリル塗装した木材、物、木材に貼り付けた写真/フォステルによる手書きで「《どのような音楽が頭の中に壁を創るのか》あるいは《フルクサスの竪琴》(11)」/題名と署名入り【模型】1992-94年/台上に戦車の模型、ピアノ線、木材/模型、台座上のスピーカーから《フルクサスのハープ》の試聴サンプルを録音したテープが再生される/フォステルによる手書きで「《どのような音楽が頭の中に壁を創るのか》《コンサート・ハプニング》」/題名と署名入り-----ヴォルフ・フォステルは、1937年レーヴァクーゼンで生まれる。1950-53年ケルンでリトグラフと工業芸術を学ぶ。1955-56年にパリ高等美術学校で、1957年にデュッセルドルフ美術アカデミーで学ぶ。1962年ヴィースバーデンにおける第1回フルクサス・フェスティバルに、ナム・ジュン・パイクやゲオルク・マツィウナスとともに参加。1968年カーゲル、フォイスナー、ホイバッハらとともに視覚音響事象研究のための「ラボール協会」を設立。1971年にベルリンに移住し、HAB(ハプニング・アルヒーフ・ベルリン)、ADA(前衛的アクション)、スペインのエクストレマドゥーラにMVM(マルパルティダ・フォステル美術館)などを設立した。1981年ノルドライン・ヴェストファーレンでフルクサス巡行。現在、ベルリンとスペインのマルパルティダに在住。この作品のタイトルにある「頭の中の壁」は、意識が創り出す劇場のことを指しているのかもしれない。
カテゴリー:作品
バルビゾン派とは?【 美術用語 】 パリの東南、フォンテーヌブローの森の北西にある小村バルビゾンを、1830年頃からテオドール・ルソーやコローら若い画家たちが訪れ、風景を描いていた。そして、1835年のルソーに続いて、ミレー、コロー、トロワイヨン、ドービニー、デュプレらが、1840年代にかけて相次いで移住し、風景画を描くグループを形成した。この集団をバルビゾン派というが、それぞれ独自の画風をもっており、ミレー、コローなど、同じバルビゾン派としてひとまとめにするのが難しい作家もいる。しかし、おおむねコンスタブルやボニントンらのイギリスの風景画や、17世紀オランダの風景画からの影響が強い。当時、一般的となっていたイタリア旅行もせず、主にバルビゾンで制作した彼らにとって、自然は、ほとんど崇拝の対象に近いものであった。また、風景それ自体に興味を示し、古典的な規範に反抗するその態度は、当時としてはかなり革新的なものであった。すぐ後に続く写実主義や、印象派に与えた影響も少なくはない。 |
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