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かゆかわ しんじ 粥川伸二
14歳のときに結核性骨髄炎のために右足を切断、それを機に商業学校を中退して画家を志し、山口草平に師事する。大正7年第1回国画創作協会展に入選し、このころから土田麦僊の指導を受ける。以後も同展に出品を続け、13年会友に、15年には会員に推挙される。昭和3年の同協会解散後は、新樹社の設立に参加する一方で、4年第16回院展に初入選を果たす。6年の新樹社解消後も院展に出品を続けるが、20年戦災で家屋及び作品、写生帖すべてを焼失し、疎開先の姫路市で死去する。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年)
カテゴリー:作家
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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