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かゆかわ しんじ 粥川伸二
14歳のときに結核性骨髄炎のために右足を切断、それを機に商業学校を中退して画家を志し、山口草平に師事する。大正7年第1回国画創作協会展に入選し、このころから土田麦僊の指導を受ける。以後も同展に出品を続け、13年会友に、15年には会員に推挙される。昭和3年の同協会解散後は、新樹社の設立に参加する一方で、4年第16回院展に初入選を果たす。6年の新樹社解消後も院展に出品を続けるが、20年戦災で家屋及び作品、写生帖すべてを焼失し、疎開先の姫路市で死去する。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年)
カテゴリー:作家
ネオ・ダダとは?【 美術用語 】 1950年代の末、ニューヨークにおいて、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズが、あいついで個展を開いた。当時の美術の世界は、抽象表現主義が全盛をきわめていたが、その中で彼らは、日常の具体的、卑俗的な、すぐそれと知れるようなものを画面に登場させ、大胆な画風を示した。ラウシェンバーグは、絵画に布や写真、印刷物などを加えて、雑多なイメージを画面に集めてくるコンバイン・ペインティングを、ジョーンズは国旗や標的などを画面にクローズアップすることで、反芸術の新しい表現スタイルをうちだした。これらの創作活動を、芸術に対する挑戦的な姿勢とみなし、「ダダの再来」という意味でジャーナリストが名付けたものが「ネオ・ダダ」である。日本も1960年の読売アンデパンダン展に、ネオ・ダダ・オルガナイザーズというグループが出品するなど、影響を受けている。ネオ・ダダは抽象表現主義につづき、後のポップ・アートの出現をまつことになる。 |
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