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まずしいしょくじ 貧しい食事
やせこけた二人の男女が質素な食卓を前にして座っている。疲れ果てた風情のこの二人は、互いに顔をそむけあい、会話もない。目が不自由な男は女の肩に手を回し、冷めた表情の女は、それを受け入れるでもなく、拒否するでもなく、ほおづえついている。 1904年、スペインからパリに出てきたピカソは、モンマルトルにある木造アパート「バトー・ラヴォワール」(洗濯船)に住み着く。ピカソ22歳の春であった。エッチングの技術を友人から教わり、銅版画に取り組もうとするが、貧乏絵かきのピカソには、新しい銅版画を買うお金がない。結局、他人の使い古しの亜鉛板を用いて、この作品は制作された。 ピカソがあとにしたスペインは、当時、各地の植民地を次々と失い、急速に没落への道をたどっていた。街には、職を失った人や戦争で負傷した人などがあふれたいたという。そんな状況をピカソも肌で感じていたに違いない。この作品に登場する男女もまた、それらの困窮者がモデルである。彼らに対する共感と一種のあきらめに似た悲しみが、ピカソを表現へと駆り立てた。 骨ばった骨格、細くて異様なまでに長い手や指は、彼らの不安や孤独を暗示し、シャープな線とコントラストの強い陰影表現が、緊張感のある劇的な画面を生み出した。それを可能にしたのは、抜群の描写力と、習い始めとは思えない卓越した銅版画制作の技術力である。 画面全体を支配する哀感は感傷に流れずに適度に仰制され、見るものの心情に訴えかける高い密度を持ってする。また、そこにピカソ自身の孤独や不安を重ね合わせるとき、これは内面の個人的な世界なのだ、という感を強くする。 ピカソの画業を貫く銅版画制作を代表する作品であると同時に、二十世紀版画史上における金字搭でもある。また、これは版の状態が良好な時期に刷られたものであり、刷り上がりも美しい。
カテゴリー:作品
タルとは?【 作家名 】 ネグリチュードの詩人としても知られた文人大統領サンゴールが打ち出した、新生セネガルの発足に際しての文化振興政策の思想は、アフリカの伝統的な精神をベースにして、西欧近代の物質文明を同化してゆこうというものであった。当時、パリから戻ったばかりのパパ・イブラ・タルは、サンゴールの理想の実現に向けて、ダカールの若い美術家たちを指導し、積極的に助言をあたえるなどした。やがて、これら一群の作家たちをエコール・ド・ダカールと呼び称するようになるのだが、彼らは仮面や神像などの伝統的なモチーフをキュビスムの手法を取り入れて、半抽象の様式で描くことに活路を見いだした。1966年、ダカールで開かれた第一回世界黒人芸術祭で、エコール・ド・ダカールは華々しく登場することになる。パパ・イブラ・タルも、この時にイバ・ンジャエによって企画された〈現代美術−傾向と対峙〉展に出品している。ここではエコール・ド・ダカールの第一世代の美術家たちがどのような顔ぶれであったのか、よく知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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