ゲラールは扇面画をいくつも制作しているが、そのどれもが最終的に扇として実現されたわけではなかった。
ゲラールだけでなく、
ドガ、ゴーガン、
ボナール、
ドニ等、同時代の作家の多くが扇の形に新しい造形の可能性を見いだし、グアッシュや水彩等の画面として利用した。他の作家たちが扇面を単に一繋がりの空間として捉え、風景画等を描いたのに対して、
ゲラールは具象的な要素と
抽象的な要素を共存させた。(「世紀末から 西洋の中の日本「
ジャポニスム展」図録)
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アンリ=シャルル・ゲラールとは?【 作家名 】
画家、版画家、挿絵画家、装飾デザイナーとして活躍した
ゲラールは、1860年代、
マネや
フェリックス・ビュオ、
フィリップス・ビュルティらの親しい友人であった。初期には
エッチングによる複製版画で生計を立て、装飾デザイナー、あるいは扇製作者としても働いた。1883年には、ルイ・ゴンスに協力して、『日本美術』に日本の美術品を描いた200点余りもの
エッチングの挿絵を入れている。オーギュスト・
ルペールと付き合うようになり、おそらくエミール・
ベルナールにも刺激されたのであろう。1880年には
木版画を手がけ、1880年代後半、多色刷
エッチングの技法の発展に尽力した。フィリップ・ビュルティと
フェリックス・ブラックモンと共にデュラン=リュエル画廊で画家=版画家年次展覧会を設立し、1890年、フランス画家=版画協会を
フェリックス・ブラックモンと共に創設した。1897年、ロジェ・
マルクスは
ゲラールのことを「パリの日本人」と評している。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「
ジャポニスム展」図録)
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