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にほんのしょうがつ 日本の正月
ビゴーは日本の風俗を描いた版画集を数多く出版したが、この『日本の正月』は『日本の素描』という銅版画集と合わせて製本されている。影絵のように人物をシルエットたけで表現する様式は、広重等の浮世絵版画に依るだけでなく、ヨーロッパで18世紀末から19世紀末にかけて流行した「オンブル・シノワーズ(中国影絵芝居)」や木版影絵にも依るところが大きい。上下二つに別れている画面はコマ割り漫画として読めるように構成されている。主題は居留外人が日本の正月の様々な習慣に接し、カルチャー・ショックを受けるというもので、ビゴー自身の経験も生かしているのだろう。このようなビゴーの諷刺漫画の読み手は、もっぱら横浜、神戸の居留外人たちであった。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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