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さらのでざいん かも 皿のデザイン(鴨)
ルソー食器セットの花鳥図のデザインで1866年から陶器の絵柄のデザインでも名の売れ始めた、版画家のブラックモンは70年代にも多くの食器のデザインを手がけた。1872年からの10年間はシャルル・ハヴィランドによって設立されたオトゥイユの陶器製造工房の美術監督も務めたが、この皿のデザインもハヴィランド社によって製作され、その皿は現在同社のコレクションに所蔵されている。鴨は鳥好きのブラックモンが最も頻繁に描いた鳥であるが、この番いの鴨は北斎漫画初編の様々な鳥を寄せ集めたページから引用されていると思われる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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