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おんどり 雄鶏
ブラックモンの生涯のモティーフとなる鳥は、彼が日本の版画と遭遇する1850年代の後半より以前から描かれていた。それらは従来、北斎漫画等の日本の版画の影響ばかりが指摘されがちであったブラックモンの作品論に疑問を投げ掛け、彼の作品のオリジナリティーに目を向けさせる。この作品も『北斎漫画』の雄鶏の図等を原典とする可能性が指摘されているが、決定的な原典は見つかっておらず、ブラックモンが実際に雄鶏を写生した可能性も考えられる。また、羽の細かい描写や陰影には、彼が幼い頃から学んだ西洋の写実主義が強く顕れている。ブラックモンにとって日本美術とは、もともと自然の事物を描くことを好んだ彼の方向性を再確認するような存在であったとも言える。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
与謝蕪村とは?【 作家名 】 現在の大阪市に生まれる。江戸中期の俳人であり、画家。姓は谷口から与謝に改めた。蕪村は俳号で、画号は初め子漢。晩年に謝寅(しゃいん)とした。二十歳頃、俳諧を志し、江戸に下って早野巴人(はじん)に入門。巴人の没後、いまの茨城県など関東や東北を巡歴し、一七五一年(宝暦元年)、京都に居を結ぶ。丹後(現在の京都府)の宮津での滞在を挟み、以後は京都を拠点に活動した。絵画の面では、明清絵画のさまざまな画法を学び、南画の画法を吸収することで、自己の表現をつくりあげた。池大雅(たいが)とともに日本南画の大成者とされている。 |
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