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はんがしゅう おおがらす きょうぞうのうえのおおがらす ぱらすのぞうへとおりたった 版画集『大鴉』胸像の上の大鴉−「パラスの像へと降り立った……」
これらの転写石版画及び蔵書票は、マネが親友のアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」を解釈して視覚化したもので、製本されていない二つ折り版のページを開くと、左に英語本文、右にそれぞれの場面に応じた挿絵が来るように挿入されている。英語本文の裏には、マネの親友の詩人ステファーヌ・マラルメによるフランス語訳が付けられた。わずか25フランで売り出されたにもかかわらず、売れ行きは芳しくはなかった。主人公のモデルとなったのはマラルメと考えられ、容姿が類似している。わずか18節からなるポーの詩の簡潔さと象徴性をそのまま視覚化するかのように、マネの描写は端的で、細部を黒い影で覆って省略してある。筆でインクを平塗りした転写石版画としてはおそらく最初のもので、デュレやゴンスの日本美術に関する著作に掲載されたような日本の墨絵の影響があると考えられている。特に最後の椅子の場面は最も抽象的で、空の椅子によって詩人の孤独を象徴し、不気味に床に横たわる影は二度と帰らない大鴉の不在感を表している。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
狩野芳崖とは?【 作家名 】 1828年長門(現在の山口県)に、長府藩御用絵師、狩野晴皐の長男として生まれる。1888年没する。幼名は幸太郎。はじめは、父に指導を受け、皐隣と号した。19歳のとき江戸に出て、木挽町狩野家、狩野雅信に入門。弟子頭(塾頭)となる。雪冬や雪村などの他、南宋の馬遠や夏圭(かけい)なども独習。同門には、橋本雅邦、木村立嶽がいた。万延年間の江戸城本丸御殿修復では、天井画を担当。幕末は、国元で国事に奔走するが、明治10年(1877)上京。苦しい生活のなかで制作を続け、内国絵画共進会などに出品。フェノロサに才能を見いだされ、その指導のもとに制作し、晩年期は、明治17年(1884)に結成された鑑画会を中心に活躍。文部省御用掛、図画取調掛雇をつとめ、東京美術学校設立に尽力した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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