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かーねーしょんとなす カーネーションと茄子
シャデルは1905年頃から、宝石商アンリ・ヴェヴェールの下で、2万点以上のジュエリー、装飾品のデザインを手がけたが、ヴェヴェールは数多くの日本美術品も収集しており、彼のアトリエでは毎週日曜日に日本美術鑑賞の会が開かれ、シャデルもそこで日本美術に触れる機会を得た。また、それとは別に一度開かれていた「日本美術晩餐会」にも出席し、ピエール・ロシュ、アンリ・リヴィエール、シャルル・ウダール等、ジャポニストのアーティストたちと親交を深めた。日本の色紙絵にも似たこの小作品は、おそらくその晩餐会や「日本美術友の会」、「新版画家協会」などの場でメニューやプログラムを書く紙としてデザインされたものであろう。また、1908年からロンドンを拠点に日本の木版技術の普及に努めた漆原ヨシジロウは、パリも頻繁に訪れ、シャデルとイサックとの共同製作も多く手がけたが、この作品も漆原の指導で制作された可能性が強い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
小林清親とは?【 作家名 】 江戸に生まれる。父は、幕府の本所蔵屋敷総頭取。父の没後、幕府の勘定下役として京都、大阪に滞在し、鳥羽伏見の戦にも参加。維新後は、明治7年(1874)、静岡から上京して画業に専念。ワーグマンにも学んだといわれる。明治9年(1876)、水彩画の学習によって得た遠近法や陰影法を用いて、東京の新名所を木版画で表し、次々と発表。光と陰の表現から、「光線画」として人気を集めた。明治14年(1881)頃から、光線画の制作をやめ、「団団珍聞」に風刺画を描き、また、「東京日日新聞」「報知新聞」などに挿絵を描いた。日清戦争時には錦絵で戦争画を制作。その後、錦絵の衰退に伴い、肉筆画を描くことが増えていった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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