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かーねーしょんとなす カーネーションと茄子
シャデルは1905年頃から、宝石商アンリ・ヴェヴェールの下で、2万点以上のジュエリー、装飾品のデザインを手がけたが、ヴェヴェールは数多くの日本美術品も収集しており、彼のアトリエでは毎週日曜日に日本美術鑑賞の会が開かれ、シャデルもそこで日本美術に触れる機会を得た。また、それとは別に一度開かれていた「日本美術晩餐会」にも出席し、ピエール・ロシュ、アンリ・リヴィエール、シャルル・ウダール等、ジャポニストのアーティストたちと親交を深めた。日本の色紙絵にも似たこの小作品は、おそらくその晩餐会や「日本美術友の会」、「新版画家協会」などの場でメニューやプログラムを書く紙としてデザインされたものであろう。また、1908年からロンドンを拠点に日本の木版技術の普及に努めた漆原ヨシジロウは、パリも頻繁に訪れ、シャデルとイサックとの共同製作も多く手がけたが、この作品も漆原の指導で制作された可能性が強い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
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藤田嗣治とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。1968年没する。(スイス、チューリヒ)。1910年東京美術学校西洋画科を卒業する。1913年フランスに渡り、ピカソやモディリアーニらと交友する。乳白色のなめらかな絵膚に線描する独自の画風を創り出し、1919年サロン・ドトンヌの会員、2年後に審査員に推挙されるなど、一躍エコール・ド・パリの寵児となる。1929年一時帰国したあと、1930年から33年にかけてパリを足場に中南米各地で制作、39年から40年にかけて再度フランスに渡る。その間1934年二科会会員、41年帝国芸術院会員となり、43年朝日文化賞を受賞する。戦後は1949年アメリカを経てフランスに渡り、55年フランスに帰化、57年レジオン・ドヌール勲章を受賞、59年ベルギー王立アカデミー会員となる。1959年カトリックの洗礼をうけてレオナルド・フジタと改名、晩年はフランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計、壁画制作に没頭する。(「ピカソと日本」図録 1990年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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