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さとう こうか 佐藤光華
光華は京都のひと。本名長三郎。美工を経て、大正8年絵専を卒業、研究科に進み同10年に修了。美人画の菊池契月に師事する。在学中の同6年の第11回文展に「夢現」が初入選、翌年「楚蓮香」を出品し、帝展にも、同9年の第2回展「吉祥天」以後、主に浪漫情趣豊かな美人画表現を中心に毎回出品を続け、昭和5年第11回帝展「菊慈童」で推薦となった。同14年には、その浪漫な作調で目黒雅叙園の欄間や天井絵の制作もしたが、同19年1月急性肺炎のため47歳の若さで他界した。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年)
カテゴリー:作家
狩野芳崖とは?【 作家名 】 1828年長門(現在の山口県)に、長府藩御用絵師、狩野晴皐の長男として生まれる。1888年没する。幼名は幸太郎。はじめは、父に指導を受け、皐隣と号した。19歳のとき江戸に出て、木挽町狩野家、狩野雅信に入門。弟子頭(塾頭)となる。雪冬や雪村などの他、南宋の馬遠や夏圭(かけい)なども独習。同門には、橋本雅邦、木村立嶽がいた。万延年間の江戸城本丸御殿修復では、天井画を担当。幕末は、国元で国事に奔走するが、明治10年(1877)上京。苦しい生活のなかで制作を続け、内国絵画共進会などに出品。フェノロサに才能を見いだされ、その指導のもとに制作し、晩年期は、明治17年(1884)に結成された鑑画会を中心に活躍。文部省御用掛、図画取調掛雇をつとめ、東京美術学校設立に尽力した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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