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あかしあ アカシア
この作品は、ホプキンズの作品群の中でも、最も強く日本の浮世絵の影響を顕していると言えるだろう。画面の上方から垂れ下がるアカシアの枝と花に焦点があり、余分な葉は画面の縁で切り取られている。また、無地背景の下方には広重の作品等に見られる「ぼかし」の技法が用いられている。広重等の有名な浮世絵画家の他にも、鍬形恵斎(恵斎政美、1764−1824)の『草花略画式』との類似性が指摘されている。しかし、ホプキンズの作品では黒い輪郭線は全く廃され、色彩の微妙な濃淡によってできる柔らかな質感がより強調されており、自然主義的習作というより平面のデザインという趣きが濃い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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