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ぐろーすたーこう グロースター港
前景の対象を大きく描き画面上の奥行きを強調する遠近表現法、また対象の不要な部分を大胆に画面から排除する構図法は、浮世絵版画に顕著に見られる手法である。1867年に日本美術に接する機会を得てから、ホーマーはこれらの手法を頻繁に取り入れている。この作品は、ホーマーが長年挿絵画家として従事した『ハーパーズ・ウィークリー』誌に掲載されたもので、アメリカ大衆の余暇活動をテーマとしている。19世紀後半は木版画がまだ報道写真の役目を担っており、ホーマーのように大胆で簡潔な表現で対象を描くことのできる挿絵画家が人気を博していた。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
小林清親とは?【 作家名 】 江戸に生まれる。父は、幕府の本所蔵屋敷総頭取。父の没後、幕府の勘定下役として京都、大阪に滞在し、鳥羽伏見の戦にも参加。維新後は、明治7年(1874)、静岡から上京して画業に専念。ワーグマンにも学んだといわれる。明治9年(1876)、水彩画の学習によって得た遠近法や陰影法を用いて、東京の新名所を木版画で表し、次々と発表。光と陰の表現から、「光線画」として人気を集めた。明治14年(1881)頃から、光線画の制作をやめ、「団団珍聞」に風刺画を描き、また、「東京日日新聞」「報知新聞」などに挿絵を描いた。日清戦争時には錦絵で戦争画を制作。その後、錦絵の衰退に伴い、肉筆画を描くことが増えていった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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