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つみわらのあるゆうぐれふうけい 積藁のある夕暮風景
印象派ならびに後期印象派の中心人物であるピサロは、油彩における点描技法で知られるが、1863年頃から銅版画の分野でも活躍しており、版画家の知り合いたちを通じて日本美術に興味を持ったと考えられる。また、70年代からピサロの様式に影響を与えたと言われる批評家テオドール・デュレは、1871年に実際に日本を訪れたほど日本美術に傾倒しており、彼を通してピサロも日本美術について学んだ可能性が強い。また、彼の息子リュシアンに宛てた書簡の中には日本美術の展覧会を見た感想が多く含まれる。この夕暮れの田舎道を逆光で描いた風景版画は、ピサロが称賛したコローの風景画の影響も示しているが、シルエットとして抽象化された人物や遠くの並木などに、浮世絵に見られる簡略化された形態の影響が見られる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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