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つみわらのあるゆうぐれふうけい 積藁のある夕暮風景
印象派ならびに後期印象派の中心人物であるピサロは、油彩における点描技法で知られるが、1863年頃から銅版画の分野でも活躍しており、版画家の知り合いたちを通じて日本美術に興味を持ったと考えられる。また、70年代からピサロの様式に影響を与えたと言われる批評家テオドール・デュレは、1871年に実際に日本を訪れたほど日本美術に傾倒しており、彼を通してピサロも日本美術について学んだ可能性が強い。また、彼の息子リュシアンに宛てた書簡の中には日本美術の展覧会を見た感想が多く含まれる。この夕暮れの田舎道を逆光で描いた風景版画は、ピサロが称賛したコローの風景画の影響も示しているが、シルエットとして抽象化された人物や遠くの並木などに、浮世絵に見られる簡略化された形態の影響が見られる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
川上冬崖とは?【 作家名 】 1827年長野県に生まれる。江戸に出て大西椿年に学び岸太郎と称する。蕃書調書に入り、絵画取調出役、画学出役となって洋画法を研究し、後進を指導。明治維新後、大学南校(東京大学の前進)、文部省、陸軍兵学寮、陸軍参謀局に勤める。第1回、第2回内国勧業博覧会美術部の審査主任。1870年下谷に私塾聴香読画館を設けて青年たちに西洋画法を教える。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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