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えっふぇるとう36けい がちょう 『エッフェル塔三十六景』画帳
この画帳を構想し始めた頃、リヴィエールは日本風の多色摺木版を手がけるようになったばかりだったが、彼は早速、手本であった広重や北斎に倣って、風景画の連作を作ることを思い立った。当時フランス革命百周年記念の万国博覧会に合わせて建設中のエッフェル塔は、形と大きさの上で富士山に見合う、新しいパリの象徴となった。北斎の『富嶽三十六景』がこの画帳の直接的なモデルとなったことは明らかだが、前景を遮るように木の枝を配するなどの構成上の技法は、広重の作品から学んだと思われる。三十六景のうち、「オートゥイュ鉄橋より−『エッフェル塔三十六景』のための習作」と「オーステルリッツ橋より−『エッフェル塔三十六景』のための習作」は自刻の木版で摺られたが、その困難さに気付いたリヴィエールは残りの34図をスケッチのまま据え置きにし、1902年になって石版画によって全図を完成させた。表紙及びカバーの装幀はジョルジュ・オリオールによる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
シニャックとは?【 作家名 】 新印象主義の代表的な理論家シニャックは全くの独学で画家となっている。1880年代には、印象派のモネ、シスレー、ルノワール、ギョーマンらの影響を受けていたが、1884年にスーラの作品を見、さらに1885年にカミーユ・ピサロと息子のリュシアンに出会ってから、本格的に点描法を取り入れ、色彩論を学び始めた。ルイ・ゴンスがジョルジュ・プティ画廊で1883年に開いた日本美術回顧展やパリで開かれたその他の日本美術の展覧会(たとえば1883年と1884年の装飾美術中央連合での日本画家年次展を確かに観ているにもかかわらず、彼の作品にジャポニスムの影響が現れたのは1885年から1886年頃である。ピサロ父子やスーラ(スーラは1885年頃から日本美術の影響を受けている)や、1887年にパリで出会ったゴッホとの親交によって、彼の極東への関心は高まっていった。1885年に版画を始め、まずエッチングの制作を試み、ついで1888年に、新印象主義色彩論を取り入れた多色刷石版画を制作した。彼は浮世絵版画に見られるような大気の明るさと色彩効果を版画に表現しようとした。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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