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よる ぱんし4より 夜−『パン』誌IVより
独学の画家シニャックは、1885年頃スーラやピサロに出会ったことをきっかけに点描法を取り入れた。日本美術には展覧会などを通じて、既にそれ以前に触れる機会はあったものの、その影響は点描技法を始めてしばらく後、特にゴッホとの親交があってからしか見られない。版画も80年代半ばに始めたが、作品は少なく、約20点の石版画、7点の木版画、7点のエッチングが数えられるのみである。しかし、多色刷石版画を手がけたのは1888年と早く、ボナール、ロートレックの試みに先駆けている上、分割主義の色彩理論を既に版画において実践している。この作品では、青のグラデーションと薄い緑の点だけで画面が構成され、穏やかな夕暮れの情景が表現されている。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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