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よる ぱんし4より 夜−『パン』誌IVより
独学の画家シニャックは、1885年頃スーラやピサロに出会ったことをきっかけに点描法を取り入れた。日本美術には展覧会などを通じて、既にそれ以前に触れる機会はあったものの、その影響は点描技法を始めてしばらく後、特にゴッホとの親交があってからしか見られない。版画も80年代半ばに始めたが、作品は少なく、約20点の石版画、7点の木版画、7点のエッチングが数えられるのみである。しかし、多色刷石版画を手がけたのは1888年と早く、ボナール、ロートレックの試みに先駆けている上、分割主義の色彩理論を既に版画において実践している。この作品では、青のグラデーションと薄い緑の点だけで画面が構成され、穏やかな夕暮れの情景が表現されている。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
ベラとは?【 作家名 】 ザイール南部にあるシャバ州の中心都市であるルブンバシ(旧エリザベトビル)は、銅やコバルトの産地として世界的に知られている。第二次世界大戦中にブラザビル(現コンゴの首都)で、軍務として現地の美術の保護に携わっていたブルターニュ出身のフランス人画家ピエール・ロマン=デフォッセが、チャド出身の従兵ベラを連れて、この地に入ったのは戦争末期のことであった。アフリカ人の芸術を保護、奨励することに深い関心を寄せていた彼は1944年、現地の人々を相手にしたアトリエ〈ル・アンガー〉を開設する。その最初のメンバーのひとりがベラであった。〈ル・アンガー〉では、デフォッセはただキャンバスと絵の具、それに場所だけを提供して、主題も構図も一切教えずに、もちろん西洋美術の画集に手を触れさせることもなく、もっぱら現地の人たちの自発性に委ねたといわれている。指先を使うベラの点描画法などは、実に個性的な手法であった。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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