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はし 橋
この作品及び、同じく1906年に制作されたノードフェルトの木版画は、同年にシカゴのアート・インスティテュートで開催されたフランク・ロイド・ライト所蔵の広重の浮世絵展に直接的な影響を受けている。画面を縁取る線や、簡略化された空間処理方法、輪郭線の多用、そして主題である雪景色もまた、広重作品との強い関連性を示している。同年の《北の海の漁師》でも、同じ特徴が見られ、斜めに降りかかる雨の線と画面の右下で切り取られている前景の人物と船等は広重作品からの応用と見られる。右上の赤いカルトゥーシュは「芳年」と読め、ノードフェルトが広重だけでなく、多くの浮世絵師の作品を参考にしていたことが窺える。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
上村松園とは?【 作家名 】 松園は京都のひと。本名津禰。明治20年京都府画学校に入学し鈴木松年に師事するが、翌年退学して松年塾に入った。次いで幸野楳嶺に師事し、楳嶺の死後は竹内栖鳳の門に移る。画を学ぶ傍ら漢学や詩を学び、国内勧業博覧会などで早くから数々の賞を受賞した。明治40年の文展開設後は、文展・帝展に格調高い美人画を出品し続け、内外の展覧会で受賞を重ねた。東京の池田蕉園、大阪の島成園らとともに閨秀の三園と称された。昭和19年帝室技芸院となり、美人画だけでなく、その香り高い精神性の女性表現によって昭和23年には女性最初の文化勲章を受章している。(「京都の日本画−京都画壇の俊英達−」図録 2001年) |
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