![]() |
|||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||
|
せいふく わかいじょせいのためのがしゅうより 「制服」−『若い女性のための画集』より
『若い女性のための画集』は、1896年、アーティストによるオリジナル石版画の出版を数多く手がけ、サロン・デ・サン(百人展)を開催していた、プリュム社から出版された。アルバムは10枚の白黒の石版画から成り、最新ファッションに身を包み、街を闊歩する若い女性たちの姿が描かれた。しかし、この作品の焦点は画面の下から前方に向かって歩いてくる男性にあり、白いドレスを着た二人の女性は中心から外れている。窓から交差点を見下ろす視点は、広重の『東海道五十三次』の《藤枝》等、浮世絵に頻繁に見られる鳥瞰図的視点から学んだと思われる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
土田麦僊とは?【 作家名 】 1887年新潟県に生まれる。本名金二。弟茂(つとむ)は後の思想家土田杏村で、国画創作協会の結成にも協力する。1903年(明治36)、僧になるため京都に出たが、画家を志して預けられた智積院から出奔、まず鈴木松年の門に入り、松岳と号した。しかし旧派の松年に飽き足らず、04年竹内栖鳳に入門して麦僊の号を受ける。翌年から新古美術品展に出品。08年の第2回文展で〈罰〉により3等賞を受賞。09年新設の京都市立絵画専門学校別科に入学、11年に卒業した。この間、黒猫会、仮面会を結成し展覧会を開いた。絵専卒業制作〈髪〉により第5回文展で褒状。中井宗太郎や雑誌「白樺」の影響で西洋美術に触れ、〈島の女〉(第6回文展)、〈海女〉(第7回文展)などを発表。1918年(大正7)には、竹喬、紫峰、華岳らと国画創作協会を結成、第1回展に〈湯女〉を出品。1921年竹喬、晩花らと渡欧、ルノワールの画室を訪門するなど西洋美術に直接触れ、23年帰国。翌24年第4回国展には〈舞妓林泉〉を出品。1928年(昭和3)の国画創作協会解散後は官展に復帰した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
||