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かふぇこんせーるにて カフェ・コンセールにて
優れた版画家の父オーギュストの版画工房で働いていたウジェーヌ・ドラートルは、1880年代には彼の住んでいたモンマルトルの風景を白黒のエッチングで描き始めた。1890年代初めには、先輩であるゲラールやモラン、カサットから学びながら、高度な技術を要する多色刷エッチングを手がけた。父を凌ぐほどの技術を身につけたドラートルは50人以上の画家たちの版画を制作し、1909年にはある批評家に全ての版画がドラートル風に見えると指摘されるほどであった。彼は特にア・ラ・プペ(a la poupee)という、複数のインクを一枚の版にインク詰めして刷る技法を多用していたが、この作品も線に用いられた黒と赤とが混ざっている点から判断すれば、同じ方法で刷られたものであろう。ゲラールやカサットから様式的な影響も受けたドラートルは、彼らを通じてジャポニスムの要素も取り入れており、この作品でも手前の人物が画面の端で切られている点、画面を縁取る装飾的なデザイン等に日本美術の影響が窺える。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
コブラとは?【 美術用語 】 1948年にアムステルダムで結成された芸術家グループ。カレル・アペル,アスガーヨルン,コルネイユらが実験美術家と称して集まったものである。コブラの名称は、結集した作家の生国が、デンマーク、ベルギー、オランダの三国にわたっていたことから、それぞれの首都のコペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字をとってコブラと称するようになった。激しい筆触、鮮やかな色彩による表現主義的な作風が共通し、また、精神障害者や子供による作品に表現の可能性を見い出し、アンフォルメルの運動とも深くかかわりながら、ヨーロッパでの第二次大戦後の新しい絵画運動の代表のひとつとなった。しかし、グループとしての活動は短命で、3回のグループ展を開催し、3年後の1951年に解散している。 |
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