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せいじゃくのとき えすたんぷもでるぬしより 静寂の時−『エスタンプ・モデルヌ』誌より
ムーニエは、プリヴァート・リヴモンやギズベルト・コンバズ等を含む19世紀末に活躍した、ベルギーのポスター画家たちの一人で、仲間たちと同様、フランスのポスター画家たちやイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動、日本美術等、様々な美術から様式上の影響を受けている。その中でも彼がフランスの版画作家たちと最も近似した様式を示していることは、同じ頃の『エスタンプ・モデルヌ』誌に掲載されたエヴェヌポルやランフトの作品と比べてみても明らかである。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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