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ぱりじぇんしょっきせっとのためのさらのでざいん パリジェン食器セットのための皿のデザイン
1859年に西洋人として始めて『北斎漫画』を発見したと言われる版画家ブラックモンは、ジャポニスムの先駆者で、1866年にはウジェーヌ・ルソーの注文で、日本美術から鳥や花のモティーフを借用した食器セットのデザインを手がけている。ルソー食器セットはヨーロッパ中の陶器メーカーにインスピレーションを与え、ロココや新古典主義のデザインで行き詰まっていた西洋陶器に新風を吹き込んだ。パリジェン食器セットは、1872年にブラックモンがアート・ディレクターとなった、シャルル・ハヴィランド工房のために制作された。セットの全体が日本の花鳥画に影響を受けたデザインとなっており、葦に留まる小鳥、小さな滝や飛ぶ鳥の群れ等が、空間的関係を無視して、丸皿に収まるように描かれている。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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