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かつら ゆき 桂ゆき
1913年東京都に生まれる。1991年没する。本名雪子。1926年池上秀畝に日本画を学ぶ。1931年東京府立第5高等女学校を卒業後、中村研一、岡田三郎助に学ぶ。1933年第20回光風会展に出品。この頃からアバンギャルド洋画研究所に通い始める。1935年第22回二科展に初入選。1938年山口長男、吉原治郎ら二科展に出品する前衛的作家たちとともに九室会を結成。コラージュの手法などを用いて機知に富む作品を発表し注目を集めた。翌年の第26回二科展で特選を受賞し、40年の第27回展で会友となる。1946年三岸節子らと女流画家協会を創立。1947年第32回二科展で準会員、50年の第35回展で会員に推挙され56年まで審査員。1956年渡仏し61年までヨーロッパ、アメリカに滞在。1961年第6回日本国際美術展で優秀賞を受賞。同年二科会を退会。1966年第7回現代日本美術展で最優秀賞受賞。1980年には山口県立美術館で「桂ゆき」展を開催。以後個展を通じて意欲的に作品を発表した。
カテゴリー:作家
構成主義とは?【 美術用語 】 ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開された芸術運動。ウラジーミル・タトリンが1913年に始めた鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのを発端とする。現実の素材による非再現的構成という造形理念は、ロドチェンコなど多くの共鳴者を得て、構成主義という運動に発展し、モスクワの前衛美術界を、マレーヴィチの提唱したシュプレマティズム(絶対主義)と二分した。革命後は、革命政府の美術政策の推進勢力となり、絵画、彫刻をブルジョワ芸術として否定するとともに、鉄・ガラスなどの工業生産物の使用と社会的効用性を主張し、建築・デザイン・舞台美術などの分野にも拡がり、1920年には造形芸術の各分野をほとんど支配した。運動としては1919年頃から効用派と純粋造形派とに分裂し、純粋造形派のペヴスナー、ガボらは運動を離れ、効用派もその後産業との一体化を推進したが1930年代に政府より批判され終結したが、国外の抽象芸術運動に与えた影響は大きい。タトリンの「第3インターナショナル記念塔(模型)」はその代表的作品。 |
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